【特集】知って学ぼう!習志野分屯基地(前編)

習志野演習場内に所在する「航空自衛隊 習志野分屯基地」

習志野駐屯地に隣接する習志野演習場は、開発が進んだ周辺地域の中に残された230万平方メートルを超える広大な演習場であり、野生動物も生息する東京に最も近く最も広大な演習場です。 年始の「第1空挺団 降下訓練始め」や夏の「習志野駐屯地夏まつり」の花火大会は、近隣の八千代市、船橋市、習志野市の3市から毎年7万人以上の来訪者を誇る地域に大変愛されるお祭りとなっており、その習志野演習場内に習志野分屯基地は所在し、習志野分屯基地(第1高射隊)は、地対空誘導弾ペトリオットミサイルシステムで「首都圏防空最後の砦」を担う基地(部隊)となっています。

 習志野分屯基地内に咲く小さな花

航空自衛隊のミサイル部隊、そのルーツはなんと陸上自衛隊!

航空自衛隊の高射(こうしゃ)部隊。一見、陸上自衛隊の装備と思える外観や役割に「航空自衛隊?」と不思議に思われる方も多いかと思われます。部隊の歴史を紐解いてみると、高射隊の始まりは驚くべきことに陸上自衛隊にありました。

「昭和33年9月、科学技術の進歩により、航空機の高速化、高高度化が進み、これを迎撃するために、我が国においても早急な地対空誘導弾の導入が必要と判断され、高射撃部隊を4個部隊を整備する事が示された」

「昭和36年4月、高射撃部隊の建設のため、ナイキミサイル基幹要員の米国における訓練が開始されることとなり、陸上自衛隊において第1ロケット実験訓練隊を編成し、部隊建設準備を開始した」

「昭和36年5月、第1次訓練要員は教育機関に応じて順次米国へむけ出発し、留学先の米陸軍化各学校において優秀成績記録を塗り替えた。また、ミサイル発射試験においても優秀な評価結果を納め、昭和37年11月、ナイキ機材一式を米国において受領し、機材と共に帰国した」

「昭和39年1月17日、第1ロケット実験訓練隊は陸上自衛隊第101高射大体として習志野において編成完結するとともに、昭和39年4月1日をもって航空自衛隊に移管する事が決定された」
出展: 習志野分屯基地史料館「習武館」展示内容より

昭和38年1月 陸上自衛隊101高射大隊編制完結(習志野) 写真:第1高射群HP

ナイキミサイル(退役:2019年習志野分屯基地撮影)
高高度を飛来する重爆撃機等に対し長射程のミサイルを発射、炸薬を炸裂させる事で目標の破壊と爆撃の阻止を行うために導入。 昭和39年から平成3年まで配備された。 令和になった現在も新たなミサイル発射・飛来問題が出てきているが、昭和30年〜40年代に急速にナイキが全国に配備されていったことからも当時の北方に対する危機感の大きさが伺える。 新旧多くのミサイルが存在するなかでナイキ以上に「ミサイル感」を醸し出すミサイルは無いのではないだろうか。 500kg程度の炸薬が飛ばせたと言われるだけあり、近寄ると存在感が物凄い。

現在も大切に保管されている創隊当初の貴重な標識

発射班統制指示器(SCI)
米国製ナイキA弾および昭和45年に換装された国産のナイキJ弾の発射統制機材の一つで、発射機の統制及びミサイルの準備等を行う。情報諸元中断等の緊急時にはミサイルを手動で発射する事が可能。

昭和40年には入間基地航空祭にナイキを初展示、翌41年には第2高射群の基幹要員が米国へ出発、44年には第3高射群が渡米、昭和48年の第5高射群の編成まで急ピッチで要員の育成と全国への配備が行われたと記録が残っており、

その後ナイキシステムは訓練以外では実弾を発射をする事なく役目を終え退役したものの、同様の脅威は世界情勢から払拭されたわけではなく、平成5年よりペトリオットシステム、平成19年より現在のPAC-3システムの運用が開始されています。 首都圏に飛来する領空を犯す航空機には「百里基地」の戦闘機が、そしてもしも首都圏が弾道ミサイル等で攻撃を受けた際の砦として「第1高射隊」がその重き役割を担っており、先の隣国のミサイル発射事案においても海上自衛隊イージス艦や全国の航空自衛隊高射隊が警戒態勢を取っていたのも記憶に新しいかと思います。

 

高射隊の歴史を学ぶ中で気になる一文を見つけました。

「昭和60年8月 日航機墜落に伴う災害派遣」

航空機の残骸が残る御巣鷹山での救難活動の為に第1空挺団が投入されたのは有名ですが、同じ習志野駐屯地内に所在する第1高射隊からも災害派遣出動がされていました。そして90年代以降には「阪神淡路」「東日本」の記述も・・・ 未曾有の災害の現場に飛び込む(飛び込んだ)のは陸海空の組織問わず、常に人間:自衛官であったことが短い記載から重たく伝わって来ます。

 

いよいよ取材の目はペトリオットミサイルへ!→